[第1回]賠償責任保険収入保険料1,000億円突破に寄せて

賠償責任保険の開発が教えてくれた、将来を予測して行動する先見性の重要さ

東京海上日動の賠償責任保険の収入保険料が、2004年度ついに1,000億円を突破した。わが国で最初となる賠償責任保険の開発者に開発当時の状況や想いを聞いた。

取材日:2005年4月27日

名誉顧問 竹田晴夫
※役職名は2006年10月1日時点のものです。

賠償責任保険とのめぐり会い

 東京海上日動の賠償責任保険の収入保険料が2004年度、ついに1,000億円を突破した。2005年4月1日には個人情報保護法が施行されるなど、権利義務観念が一般の人々の間にも深く浸透しつつある。

 わが国における権利義務観念の浸透と、それに伴う賠償責任保険の市場拡大の原点は、今から約50年前まで遡る。入社5年目で当時29歳だった竹田(後 東京海上 社長、東京海上日動 名誉顧問)が、賠償責任という未知の領域に関する商品開発に孤軍奮闘していた。

 新種保険部業務課へ異動になったばかりで、課長から「当社に役立つと思う新しい保険を作るように」という課題を与えられていた。竹田には、何を作ってもよい自由があった反面、どこから手をつけたらよいか戸惑いもあった。「もう少し課長が具体的に指示してくれてもいいのに」と思うこともあった。「与えられた仕事をただこなすだけではつまらない。自分で考えて問題を見つけ、自分で行動して初めて意義ある仕事ができる」そう思い直している頃に賠償責任保険にめぐり会った。

 当時、アメリカ駐留軍の船が入る全国の港で、駐留軍と荷役契約を結ぶ荷役業者は、契約書に定めるフォームでアメリカの保険会社の賠償責任保険を付けることが義務付けられていた。この保険を東京海上(当時)も引き受けたいという動機から、賠償責任保険とは何か、日本で育つ分野かなど、いろいろ考えた。

 当時の日本人に、賠償という概念は極めて乏しかった。事故があったとしても"被害者は泣き寝入り"というケースがほとんどで賠償責任保険が売れるような環境ではなかった。しかしながら、わが国でもこれから急速に人権思想が高まっていくであろうし、これに伴って賠償事故の頻度も、賠償金の水準も高騰するであろう、賠償責任保険の出番も近いという感じがした。むしろこの保険の運営を通じて、日本人の正しい賠償意識を育て、妥当な賠償水準を作るのが、保険会社の責務であるという社会的使命感を持つようになっていった。

1957年 難関を乗り越え、ついに賠償責任保険が認可

 「これに決めた」と研究を始めたが、何といっても資料不足。問題が大き過ぎた。1947~1948年にかけてとにかく案をまとめたが、竹田自身満足できるものではなく、まして大蔵省(当時)の認可を得られる見込みはなかった。よって、1948年に、賠償責任保険研究の動機となった進駐軍の荷役賠償責任保険だけ切り離して認可をとり、広汎な賠償責任保険の立案はゼロからやり直すことにした。

 「結局、私自身がほぼ満足し、大蔵省の認可の見通しも立ったのは1955年ですが、自賠責保険発足で大蔵省も東京海上(当時)も忙殺されていた事情もあり正式に認可を得たのは1957年になりました。

 立案・大蔵交渉の過程で泥沼に足を踏み込んでいく様な不安を感じ、もう諦めようかと思うこともありましたが、それを支えてくれたのは、『自分がやらなかったら誰がやるのか』という責任感とうぬぼれ、それに、先に述べた損保事業としての使命感でしょうか」

仕事に求められるのは、理想、情熱、先見性、そして、思い出に残る仕事をしよう

 それから50年後、今や日本人の間にも賠償観念は着実に根づき、賠償責任保険は数多い損害保険の中でも主要商品の一つに育っている。

 「いろいろな保険を作りましたが、最初から最後まで一人でやったというのはこれだけ。一人で約款を作り、料金体系を作り、一人で大蔵省と交渉しました。いつでも相談相手になってくださったが、決して私のことを押さえつけようとせず、伸び伸びとやらせてくれた当時の上司に感謝しています。また、活発に議論し合うといった部内の自由闊達な雰囲気も良かったですね」

 こうした経験を通じて、竹田は仕事はかくあるべしという理念を強く抱くようになった。「現在の需要にどう応えるかだけではなく、潜在的な需要を掘り起こし、将来を予測して行動する先見性が必要だ」

 そうして「どんな職場にいても、思い出に残る仕事をしよう。仕事に流されず、自分で考えて実行する。そうすると楽しいよ。成功も失敗も思い出として残る。大失敗があっても10年、20年たってみると良い思い出だ。」

 これは今の時代にも、全ての仕事に通じる考え方ではないだろうか。