車両を守って地域の交通を守る
(バス会社取締役 50代 男性)
前日から営業所に泊まり、台風対応をしていました。早朝、建物の外に出ますと営業所の入口の方から水が来ている感じがしましたので見に行くと、まずい状況であることがわかりました。我々はバスがないと仕事になりません。車両を守るということは、何があっても最初に考えなければならない、バス会社のDNAとして染みついていたのではないかと思います。バスがまだ動かせる間に全てのバスを動かすよう努力し、高台の須坂駅前と長野運輸支局の敷地に100台のバスを避難させました。長野運輸支局には一先ず「数台置かしてください」と電話で確認を取りました。その時は数台と表現はしましたけど、私は全部のバスを持っていくつもりでした。出勤していた運転士だけでなく、近所に住んでいる非番の運転士にも来てもらい、バスの避難先まで、行きは運転士の人数分のバスをそれぞれ運転してもらい、帰りは1台のバスに全ての運転士が乗り込んで営業所まで戻ってくるという方法を数回繰り返しました。昭和57年、長野市北部で千曲川の支流、樽川が決壊した時、バスの一部が水に浸かってしまった苦い経験が受け継がれていたこと、また、空振りになっても良いという早めの判断が功を奏したと思います。2日後には運転を再開でき、お客様から直接「大変だったね」と声を掛けられました。公共交通として早く復旧できただけでなく、自衛隊が救助した避難者の輸送にも協力を頼まれ、応えることができました。
- ※上記エピソード・イラストは内閣府「災害被害を軽減する国民運動のページ」より転載させていただきました。
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