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関連情報 海上保険の歴史

冒険貸借

近代的保険が海上保険から始まるということは通説となっていますが、海上保険がいつどこで始まったかについては諸説があります。しかし、今日では海上保険の前身は冒険貸借(Bottomry:船舶または船舶と積荷を対象、Respondentia:積荷のみを対象)であるとの説が有力です。この冒険貸借は、船舶と積荷を担保とする金銭消費貸借であり、担保物が海難事故にあって全損となった場合には、債務を免かれるという条件付債務であるため、航海が無事に終わった場合の元金に対する利息は、1航海につき24%~36%の高利であったといわれます。

第1回の十字軍遠征(1096年)以降、地中海沿岸の貿易が盛んになりそれに伴い12世紀~13世紀には冒険貸借は、イタリア、フランス、スペインなどの地中海沿岸都市で盛んに行われるようになりました。ところが、金銭消費貸借によって高利を受取ることはキリスト教的隣人愛に反するとの思想から、1230年頃ローマ法皇グレゴリオ9世によっていわゆる利息禁止令が発令され、冒険貸借は禁止されてしまいました。その後利息禁止令の抜け道を求めて、冒険貸借はさまざまな形に仮装して続けられましたが、さらに進んで海上保険の制度として金銭貸借と危険負担の2つの機能のうち後者のみをとり、危険負担の代償として前もって保険料を支払うようになりました。このことから保険料をPremium(前もって支払う金額)と呼ぶようになりました。

海上保険の成立

このような経過をへて、14世紀初頭ピサ、フィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなど北部イタリアの諸都市で始まり、14世紀中頃から後半にかけてほぼ現代と同様な形に整えられたといわれます。ちなみに、現存する世界最古の海上保険証券は1379年にピサで契約されたものです。北部イタリアの諸都市を起点とする貿易ルートのうち最も盛んであったバルセロナには早い時期に伝わり、1435年には世界最古の海上保険法典といわれるバルセロナ法令が生まれました。その後しだいに近隣諸国へと伝わり、16世紀にはフランドル地方が海上保険の中心地となりました。

英国における海上保険の発展とロイズ

14世紀後半の英国は、羊毛を生産しその大半を輸出する農業国で、金融や貿易は13世紀初頭に北イタリアのロンバルディア地方から移住し、ロンドンのロンバード街(Lombard Street)を居留地としていたロンバード人や、同じくロンドンのスチールヤード(Steelyard)を居留地としていたハンザ商人などの外国商人に独占されていました。これらの外国商人のうち英国に海上保険を伝えたのはロンバード人といわれ、金融を営むかたわら海上保険を始めたため、当時の海上保険証券はイタリア語で書かれていました。

しかし、1500年代の初頭から中頃にかけて、英国は絶対王制の確立と重商政策の推進により後進の農業国から先進国へと発展して行きます。1597年エリザベス1世はスチールヤードからハンザ商人を追放し、また、ロンバード人に対しては種々の法的圧力を加えたため耐えかねて逐次英国を去って行きました。

17世紀の中頃ロンドンにコーヒー・ハウスが出現して以来、数多くの店ができ人々の社交、商談の場として利用されるようになり、それぞれの客層や職業も固定化が進むようになりました。1688年頃エドワード・ロイド(Edward Lloyd)という人物の始めたコーヒー・ハウス(Lloyd's Coffee House)は、テムズ河畔の船着場に近いタワー街(Tower Street)にあったため、海運業者、貿易商、海上保険業者の溜り場となり、店内では船舶や積荷の売買、海上保険の取引が盛んに行われるようになりました。店主であるエドワード・ロイドはより正確な海外情報をいち早く収集し、店内の客に閲覧させたためますます繁盛し、やがてここを本拠地とする海上保険業者はUnderwriters of Lloyd's Coffee Houseとして知れわたるようになりました。

1720年にLondon AssuranceとRoyal Exchange Assuranceの2社が海上保険の引受を独占的に行える勅許会社として認められたため、会社組織の他社は海上保険の引受ができなくなりましたが、個人企業であるロイズは引受の禁止をまぬがれたばかりでなく、勅許会社の2社が火災保険の営業に重点を置いたこともあり、ますますロイズは発展し、ロンドンの海上保険の大半を占めるまでになりました。

さらに、1871年にはロイズ法(Lloyd's Act)という国会制定法が制定され、ロイズ保険組合(Corporation of Lloyd's)という法人格を持つ組織となりました。

ロイズ保険組合は、一部の法人を除き大多数が個人の保険引受会員であるアンダーライティング・メンバーのために建物や事務的なサービスを提供しています。ネーム(Name)と呼ばれる個人のロイズ・アンダーライティング・メンバー(Lloyd's Underwriting Member)は、国籍および男女のいかんを問わず他のメンバーから推薦されて、厳しい資力の審査を受けた上でメンバーとなりますが、引受けた契約については無限責任を負っています。アンダーライティング・メンバーはそれぞれシンジケート(Syndicate)というグループに属しており、専門的な経験、知識を有するシンジケートのアンダーライターが引受の実務を行っています。また、1994年より有限責任の法人メンバー(Corporate member)が認められるようになりました。ロイズ・アンダーライター(Lloyd's Underwriter)は会社組織のロイズ・ブローカー(Lloyd's Broker)を通じてしか引受はできませんが、ロイズ・ブローカーは他の保険会社とも取引ができます。ロイズ・エージェント(Lloyd's Agent)はロイズ保険組合の代理店であってロイズ・アンダーライティング・メンバーの代理店ではなく、その職務は海難事故など海事情報の提供の他に事故が発生した場合には、荷主の依頼に応じて損害の検査をし検査報告書(Survey Report)を作成します。ロイズ・エージェントは世界の主要都市にあり、日本には、横浜、神戸、門司の3都市にあります。

日本における海上保険の発展

江戸時代初期の慶長・元和年間に、中国や東南アジア諸国との間で行われた朱印船貿易における「抛金」がわが国における海上保険制度の起源と云われています。「抛金」は、ポルトガルより伝えられた「冒険貸借」と同様の金銭消費貸借であり、博多や堺などの港においては広く行われていました。
朱印船貿易は徳川幕府による鎖国により廃止され、これに伴い「抛金」の制度も衰えていきますが、江戸中期頃に菱垣廻船や樽廻船等と呼ばれる国内沿岸の海上定期輸送が発達したのに伴い、「海上請負」と呼ばれる貨物保険制度が生まれました。これは、船主や廻船問屋が、荷主に対して運賃見合いで貨物の損害に対する補償を行う制度であり、運送契約の形態を取っており、保険契約とは異なるものの、明治以降のわが国における海上保険の普及と理解に大きく貢献したといわれています。
江戸末期に福沢諭吉により、西欧における保険知識が紹介され、その後、明治初頭より海上保険の研究や「海上請負」と呼ばれる荷主への貨物補償制度の試みが行われるようになりました。こうした中でわが国最初の専業の海上保険会社として、明治12年(1879年)に弊社の前身である「東京海上保険会社」が設立されて貨物保険の営業を開始し、今日の海上保険の礎が築かれました。設立から4年後の明治17年(1884年)に船舶保険、大正3年(1914年)より運送保険のお引受を開始しています。


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